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江戸時代の湯来に「焼畑」があったのか??

佐々木章さんの、焼畑第3弾です。本学会の地元である湯来町内の焼畑についての深い考察です。

(1)江戸時代初期の検地帳にある焼畑


  江戸時代の「登記簿・納税基本台帳」といえるのが「検地帳」です。一筆ごとに地目と等級、面積、年貢、所有者などが記載されています。
 毛利氏も検地を行ったと思われますが、それは伝わっていません。毛利氏の改易後に広島藩を領した福島正則は慶長6(1601)年に領内の総検地を行いました。福島正則は元和5(1619)年に改易となりました。広島藩主となった浅野長晟(ながあきら)はその検地帳を引き継ぎました。湯来町内では、多田村、伏谷上村、葛原村の検地帳が残っています。
 広島浅野藩では寛永15(1638)年になって蔵入地(くらいりち:藩の直接の支配地)の検地を行いました。浅野藩では「地詰(じつめ)」と呼びます。このとき、実際とあまり違いがない場合には福島検地の検地帳をほぼ踏襲しました。この地詰の記録を「御本帳」と呼びます。その後、新たに開拓した場所では地詰を行ないましたが、ほかの場所では「地概(じならし)」とよぶ多少の変更はありましたが、大きな変更はありませんでした。村々ではこの御本帳の写しを代々大切に保管しました。
 そのひとつ、湯来町多田の慶長6(1601)年の検地帳の写しが「安芸国佐西郡ミのち内多田村御検地御帳」です。明治時代に「上多田組」「中多田組」「日室村」の3冊に分割されて残っています。その地目を見ると、田・野畠・屋敷・内畠・山畠・刈畠(切畠)があります。 (湯来町誌資料編Ip121)
 この「刈畠(切畠)」が「焼畑」を指すのではないかと思います。一般に切畑は、切替畑や 焼畑と同義語とされます。「畠」という字を使っているので意味に少し違いがあるのかもしれません。
 なお、「野畠」は普通の畑、「内畠」は屋敷に付随した畑です。「山畠」は、太閤検地では焼畑を「山畑」とした例はありますが、山中の不便な場所にある畑という意味だと思います。
 加計には「切替畑を焼払いたい」という願いに対し、「火の元に気を付け延焼させないように」と許可した古文書が残っています。(中山富弘,2008,近世後期中国山地の農民経済)
 「刈畠(切畠)」ではおそらく焼畑が行われていたのでしょう。

 現存する「検地帳」の中では年貢の基準になる収量を「刈畠(切畑)」1段(反≒1000u)が1斗(10升≒15s)と見積もっています。
 屋敷や上田では1石4升、上野畠が7斗です。何らかの理由で耕作ができなくなった「下野畑(年々荒)」や「下山畠(毛付あれ)」でさえ2斗なので、刈畠の収量はかなり少なく見積もられているようです。耕作放棄後に森林が回復するまでの長い休閑期間を考慮したものでしょう。
 粗放的といわれる焼畑ですが、連作障害を受けないので作付け年度だけを見ると実際の収量は思いのほか多いようです。上野畠と同程度の収量があったとみても良いでしょう。しかし帳面上では刈畠の収量は上野畠の7分の1と見積もられています。休閑期間を考慮してだれもが平均的と納得できる値を記載したものでしょう。単純に計算すると休閑期間は6年となりますが、森林が回復するには6年では短かすぎます。耕作を2〜3年続けて10〜20年の休閑期間を置いていたことも考えられます。

 検地帳3分冊のうち、「上多田組 字(大谷・雲出・本多田・小多田・志井当ル」には、「刈畠」23筆と「切畑」1筆があって面積の合計は2町2畝1歩(約2ha)になります(1筆の平均818u)。
 湯来温泉のあるあたり「中多田組 字(白井・来栖根・豆栃・弥平谷・日入谷・湯来 当ル」では155筆68町8反(約68ha)の刈畠がありました(1筆の平均440u)。
 打尾谷を含む「日室村 字(田布・向井谷・赤谷・日室・打尾谷 ニ当リ」には全くありません。多田村の刈畠の合計は70町(70ha)あまりになりますが、そのほとんどを中多田組が占めます。
 刈畠は上多田や打尾谷など奥山の方に多いのではないかと思いましたが、そうでもないようです。また、1筆の面積もほとんどが1反(992u)にもなりません。集落に近い場所で小面積の焼畑を営んだものでしょう。

 伏谷の検地帳にも「切畠」の記述があります。
 「安芸国佐西郡ふし谷上村御検地帳」(町誌資Ip105)には、田、畠、屋敷に続いて「きり畠之分」という項目があります。もヽノ木迫、なへ石、小しまさこ、いもか迫、ミのこし、松おのいき、たかた、シの木、北谷、おくの原、大うえなどで17筆合計4反余り(約0.4ha)になります(1筆の平均235u)。これらの地名のうち、もヽノ木迫、たかた、北谷、大うえには田があって山奥とは限りません。切畠1筆ごとの面積も多田村よりもずっと小さいようです。

 また葛原村検地帳写しにも「切畠」があります。
「佐伯郡葛原村検地帳写し」(町誌資IIIp29)にも163筆合計7町5畝余り(約7ha)の切畠が記載されています(1筆の平均429u)。ここでも、このたに、大古屋、さとみち、うへかいち、むかいさこ、宮わき、道下、かしわ谷には田があり、さとみちには畠もあります。やはり山奥とは限らず面積も小さいようです。

なお、現存する寛永15(1638)年の地詰帳にも「切畠」の記載があります。
和田村(町誌資Ip215)では72筆4町6反余り(約4.6ha)、下村(町誌資Ip234)では32筆1町6畝余り(約1.1ha)で、1筆当たりの面積はそれぞれ639uと329uです。多くは屋敷や田畑の近くにありました。

  以上のように、湯来町には江戸時代初期に焼畑があったようですが、許可されていた場所は、藩の森林政策とも関係がありそうです。 
 湯来町誌によると、寛永8(1631)年、福島氏時代から藩直轄林を一括して留山と称していたものを、木材を藩が使用するとして伐採を禁じた「建山」と、伐採後で樹木生育期間中であったり、水源涵養や村境が未定で係争中などの理由で伐採を禁じた「留山」を設定しました。(湯来町誌通志編p102) 

  町誌に掲載されている藩有林分布図を地形図に重ねてみました。図のうち、冠山の北側にあたる「蕨左天(わらびさで)山」、天上山の南にあたる「市楽山」、東郷山の東北にあたる「ゑけ谷山」とさらに北にある「あけす谷山」、井仁と接する「根深(ねふ)谷山」、中源峠と鉾垰との間にある「久々利木(くくりき)山」などが「建山」で、斜め格子で示してあります。


 それら藩の管理地、特に大木が生育している「建山」から遠いの場所では山火事による延焼の危険性が少ないと考えて刈畠(切畠)の火入れが認められていた結果なのかもしれません。
 たとえば、検地帳では建山の「蕨左天山」に近い日室村には刈畠が無く、やや近い上多田では2haに対し、遠方になる中多田には68haの刈畠があります。また寛永15(1638)年の地詰帳によると和田村には(町誌資Ip215)4.6haある切畠が、建山である「ゑけ谷山」「あけす谷山」に近い「恵下」には、屋敷が2軒と田が4筆、畠が6筆あるのに切畠はありません。
 またその規模や設置環境は、倉橋島にのこる「安芸国安南郡倉橋島地詰帳(1638)」を検討した米家泰作が「切畠が集落のごく近くで営まれていた。各小字ごとの面積も,おおむね1  反にも満たず,多くても  2  反を越える所が若干みられるに過ぎない。」「むしろ小規模な焼畑が補助的に営まれていた可能性が高い。」としている状況とよく似ています。
(米家泰作,2016,近世倉橋島の切畠  --瀬戸内島嶼の焼畑的畑作)

(2)白砂では新たに焼畑が認められたのか


 多田村や伏谷、葛原では江戸時代初期に焼畑がありましたが、広島藩では検地帳に記載のない新規の焼畑は許可しない方針をとったようです。広島藩の天和4 年(1684)の山法度(はっと)に「切畠御帳面之外壱歩も仕らせ間敷(まじき)事」と書いてあります。(勝矢倫生,1979,広島藩における林野政策に関する基礎的考察)
 ところが、寛永15(1638)年の浅野藩による地詰から100年以上経過した宝暦12(1762)年頃に白砂で新たに焼畑を拓いたと思われる記述があります。
 「佐伯郡白砂村十文字御開所 有物帖」(湯来町誌資料編Ip261)によると、宝暦12(1762)年8月29日に検地があって、10月15日に税金を銀納するように庄屋と百姓代に言いつけています。
 十文字御開所の面積は全部で6町ありましたが、作付けたのはそのうち10.3%の6反2畝です(ソバが1反5畝、ヒエが3反5畝、アワが3畝、芋が7畝、タバコが2畝)。
 これだけでは、開墾当初でまだ作付け出来ていなかったとも考えられます。しかし、30年後の寛政4(1792)年の「御本帳」(湯来町誌資料編Ip2)でも同様に、「十文字御新開所」6町のうち6反2畝で畑作し、「年々御見取米(収量検査)」すると書いてあります。
 せっかく開墾した土地のうち9割が30年間も荒地のままでした。作付けした面積も同じです。これも実態は焼畑だったのではないかと思います。
 十文字御新開の場所は、白砂村の「国郡志御用ニ附下しらべ書出帳」(1819年)にある「新開原」のことだと思います。そこには「木末馬渡よりふところ峠迄3丁24間、平坂。右麓より新開原迄登3町、急坂」と書いています。
 「馬渡」の地名は現在木末川にかかる「馬渡橋」に残っていますが、地元の人の話では木末公民館の裏側あたりが浅瀬になっていてここが本来の馬渡だそうです。
 それではふところ峠はどこでしょう。「芸藩通志(1835年)」の白砂村絵図には「馬ワタリ」から斜めに「十文字原」に登る道沿いに「ウバカフトコロ」と書かれた場所があります。「姥ケ懐」でしょう。
 フェリーで厳島の桟橋に降りて神社とは逆方向(包ヶ浦方向)に進むと。左手にある聖崎の手前に姥ヶ懐があります。波が穏やかな小さな浜になっています。白砂は厳島の外宮(地御前)の朔幣(さくへい)料田(1541)とされたり、造営領(大願寺分7石7斗9合)が割り当てられたりして厳島との関係が特に深い場所です。厳島の「姥ヶ懐」もよく知られていたと思われます。
 厳島の「姥ヶ懐」と同じく「穏やかな場所」という意味でつけられた名前であれば、北風のあたらない陽だまりで穏やかな場所という意味でしょう。マルニ木工の南の東向きの谷がその条件にあてはまります。木末から登り詰めて「新開原」に達するまでが「急坂」で、新開原に入ってから24間(44m)で「ふところ峠」でしょう。書出し帳にある距離ともおよそ合致します。十文字新開があるので新開原と呼んでいたのでしょう。


 十文字新開は現在の棡(ゆづりは)のうち、マルニ木工・寿マナック・ウエルユーカンなどのあるあたりではないでしょうか。
 岡岷山は、都志見往来日記(1979 年)で「十文字原といふ所あり(略)、此所の郭公ハ鳴聲ゆふに長して(十文字原のホトトギスは鳴くのがうまい)」と書いています。ホトトギスはウグイスの巣に卵を産んで孵ったヒナをウグイスに育てさせます(托卵)。ウグイスやホトトギスが好むのは、巣をかける藪があり、餌になるバッタやトンボ、コオロギ、クモといった小さな虫が多い草原があり、姿を隠す林もあるといった環境です。
 焼いて作付けした場所、数年間耕作したあと放棄して草原になった場所、森林が回復した場所がモザイクのように点在する焼畑地とその跡地の環境がまさにそれに相当します。
 白砂の十文字新開ではどのような経緯で始まったのか、またその実態は不明ですが焼畑のような畑作が行われていたのだろうと思います。

佐々木 章

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