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火を使って環境を管理する

2012年2月10日、広島市市立湯来中学校で行った特別講義の内容です。
「湯来なんでも塾”さぶやま”」のメンバーとして、日本焚火学会の佐々木章さんが焼畑についてお話しされました。


初期の人類も火を使っていましたが、そのあとになると、大規模に火を使って環境を管理するようになりました。
いろいろな火の使い方がありますが、今日は主に宮崎県椎葉村に伝わる焼畑を紹介します。
あわせて、阿蘇の野焼きの始まりと、アボリジニによる火を使った森林管理についても紹介しましょう。
アボリジニは、オーストラリアに6万年(4万年とも)前から住んでいる原住民です。



椎葉村は、九州のちょうど真ん中、阿蘇山の南にあります。
焼畑をやっておられる、椎葉秀行さん(3年前に亡くなられました)とクニ子さんご夫婦から、30年以上にわたってお話をうかがってきました。
椎葉クニ子さんは、去年の9月、NHKで「クニ子おばばと不思議の森」でも紹介されたのでご存知の人があるかもしれません。


このように山の一部を焼いています。
8月初旬にヤボを焼いている写真です。「ヤボ」というのは焼畑のことです。焼畑は古くから行われていて、地元の小学校では、体験学習もおこなわれています。



ところが、10年ほど前、このような広告が新聞にのりました。パプアニューギニアで、焼畑をやめさせて、水田などの定着型農業への移行を支援している石油企業の広告です。
 「生きるために森を焼く人たち」これは椎葉の人たちも同じですが、その「森を焼く人たちに、森を守ろう、という言葉は届かない」とあります。
「焼畑は森林破壊だ」といっているわけです。子供たちはびっくりしました。先祖から続いている焼畑が悪いといわれているわけですから。
それでは、焼畑とはどのようなものか、森林破壊かどうか見ていきましょう。



焼く前の年、夏の終わりから秋にかけて、落葉が始まったころ、焼畑にしよとする場所の木を伐ります。



冬を越して春になって芽が出てきて、梅雨の間に緑の葉が広がります。
梅雨明けに「ヤボ払い」といって、切った木の周りを片付けて空き地を作ります。
それぞれの場所を、鎌手、鎌先、横頭、横尻とよびますが、畦(くろ)とよぶ空き地を作ります。



いよいよ焼く前になると、御幣を挿して「これより、このヤボに火を入れ申す。ヘビ、ワクドウ(カエルのことです)、虫けらども、早々に立ち退きたまえ」
今から焼くので生き物は逃げなさい。
「山の神様、火の神様。どうぞ火の余らぬ(山火事にならない)よう、また、焼け残りの無いよう、おん守りやってたもうれ。」と祈って・・・。



さて、火をつけるのですが、どこから火をつけるでしょう??
山があって、左から風が吹いてます。ABCD・・・どこから火をつけるでしょうか?



じつは、火をつけるのはC、ここです。
風上に向かって点々を火をつけて行きます。


上がわに火がついて、少しずつ焼け下ってくると、横にも火をつけながら下りていきます。
焼いてしまうと燃料がなくなるのでそれ以上、燃え広がらないのですね。


こうして、上側、左右への危険がなくなると、「迎え火」といって、下からも火をつけます。
すると、上からの火と、下からの火がぶつかって、消えてしまいます。





焼いている状況の写真を見ていきましょう。
間違いなく消えると思われるときは、迎え火をしないときもあります。

焼け残りを整理して、焼き直します。
夏から秋までに収穫できるのはソバだけですから、すぐにソバをまきます。。



軽く土をかぶせて、1ヶ月半で花が咲いて、10月下旬に収穫します。





2年目は、主食のヒエです。アワをまくこともあります。
8月の初めに焼いて、すぐソバをまいて、次の年は5月に主食のヒエを作って・・・。
3年目は土の養分が減っているので肥分が少なくてもいい、マメ科のアズキを作って、4年目もマメ科のダイズです。
このあと、20年から30年、何もしないで森林にもどします。
これが集落の周辺で普通におこなわれている「オキャーゴ」ですが、
集落から遠く、標高が高い場所で、山火事の危険の少ないときは、5月に焼いてすぐ、主食のヒエを作る場合もありますが、とても危険です。
この場合も、焼畑で使ったあとは森林にもどします。


焼畑には、多くの知恵がこめられています。
梅雨があけて、緑の葉が生い茂げると、林の中には太陽が差し込まないので地面はぬれたままです。
山火事では、最初に落ち葉や枯れ枝から燃え広がります。地面がぬれているので、あまり山火事になりません。
炎が大きくなりすぎないよう、斜面の上、風下から焼きます。
火を使って火を消します。迎え火ですね。
8月はじめに焼くと、秋までに栽培できるのはソバだけです。主食のヒエは、肥料分のある2年目に作ります。土が痩せたらマメ科のアズキやダイズを作ります。
なかでも、重要なのは、十分に休ませて、森林を蘇らせるという知恵です。



森を伐って焼くと、灰にはK(カリウム)、Ca(カルシウム)といった肥料分があります。
土のな中には、他にも、P(燐酸分)、N(窒素分)といった肥料分があります。
ソバを作ると、肥料分が減ります。ヒエを作ると、また、肥料分が減ります。
マメ科で肥料が少なくても良いといっても、アズキを作ると肥料が減るし、ダイズを作っても肥料が減ります。
ここからが大事なんですが、焼畑のあとに、切り株からヒコバエが出て、樹木が育ってくると、土の肥料分が、だんだんに増加してきます。







このよみがえりの働きは、雨や樹木や落ち葉、土壌動物、カビやキノコといった土の中の生き物や細菌類の働きで、岩石の中や空中の成分を植物に使える肥料分に変えます。
焼畑のもっとも重要な点は、自然のよみがえりのしくみを利用することなのですが、一般的な「焼いて畑にする・・・」という理解は、ちょっと生半可な理解だと思います。


話題を変えて、野焼きの歴史を調べた結果を紹介しましょう。
安芸大田町の深入山、北広島町の雲月(うづつき)山、三瓶山や秋吉台でもありますが、阿蘇の野焼きが有名ですね。
阿蘇やくじゅうの野焼きがいつごろ始まったのか調べるために、顕微鏡で見えるほどの大きさの炭を使いました。
また、そこでどのような植物が生育していたのか知るために、花粉分析や、説明は省略しますがプラントオパール分析という方法を使いました(佐々木章ら.2011.植物珪酸体と花粉、微粒炭からみた阿蘇・くじゅう地域の草原と人間活動の歴史.湯本貴和ら「野と原の環境史8章」文一総合出版)。


阿蘇の外輪山に囲まれた谷では、1万年以上前から、草原と森林があって、6000年前から微粒炭が出てきます。
外輪山の上でもササなどの草原があって、1万3000年とか1万年前とかから微粒炭が出ます。
くじゅうでもササなどの草原があって8000年前から微粒炭がでます。
火をつけて野焼きをしていたかどうかはわかりませんが、草原があって、しばしば焼けていたわけです。



20万年前にアフリカで誕生した現在の人類は、6万年とも8万年、あるいは10万年前ともいわれますが、アフリカから出て、ある人々はヨーロッパへ、別の人々はインドを通って6万年前(あるいは4万年とも)にはオーストラリアに入ってアボリジ二になりました。
ついでに言うと、インドから東南アジアに入った人たちの一部は日本人になりましたし、別の一団の中には、ベーリング海峡を通って、北アメリカに渡り、南アメリカまでたどりつた人々もありました。


オーストラリアのアボリジニは、乾季が始まると雨季の前まで、決まった順序で森林に火をつけてまわります。
下草や枯れ枝を焼く程度の火ですが、火によって森の見通しをよくすることで、歩き回ったり、獲物を見つけやすくします。
また、火をつけることで、写真のように鳥の群れや、獣を導いて、狩をしやすくします。
森林に定期的に火をつけることで、燃えるものを減らして、大火事を防ぐ効果も知られています。



以上、簡単に説明しましたが、実は、わからないことがたくさんあります。

日本の焼畑は、縄文時代から・・・ともいわれますが、始まりはいつでしょうか?
そのときの方法はどうだったのでしょう?今日見てもらったような焼畑の方法はいつごろもものでしょう?
湯来でも、粟柱の伝説にあるように、奈良時代から平安時代のはじめには人々が生活していたようですが、多田の伝説にあるように、初めのころの人は山の中腹に住んでいたようです。そのころの人は、焼畑をやっていたのではないでしょうか?
阿蘇周辺の分析では、1万年前から微粒炭が検出されて、草原もあったようです。ほんとうに野焼きをしていたのでしょうか?野焼きのあと、作物の栽培はしていなかったのでしょうか?
 アボリジニはオーストラリアに渡って、森林に火をつける管理を始めたのでしょうか?
世界各地にちらばった人類には、火を使った森林管理の痕跡が残っていないでしょうか?

まだわからないことだらけです。興味があったら、皆さんも研究してみてください。

ところで、火の使い方は体得しないとわかりません。
安全には十分に配慮が必要ですが、せっかく自然が残っていて、生活の中で火を使うことの多い湯来に住んでいる皆さんです、機会をみつけて体験してみてください。



こんど、2月19日は午後1時から麦谷で「土手焼き」があるそうですよ。

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