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インダス文明の崩壊は焼成レンガが原因

2013年7月13日に開催された20周年記念大会で発表された内容です。

発表者 : 佐々木 章

K2


山好きな人はご存知でしょう、世界で2番めに高い、K2の画像です。頂上付近に岩肌が見えているのがわかるでしょうか。パキスタンでは氷河が少ないというのが今日の話題にかかわります。

(画像:ウィキペディア「K2」)

はじめに


インダス文明の崩壊の原因は焼成レンガが原因ではないだろうか??という意見の紹介です。
写真はインダス文明を代表するモヘンジョダロ遺跡ですが、ひじょうにたくさんの焼成レンガをつかっています。このレンガを焼くという行為、焚火が文明を崩壊させたのではないかということです。
今日はこうして多くの皆さんに集まってもらっていますが、火を焚くという行為が文明を崩壊させたということになると、焚火学会としても、ゆゆしき問題なわけです。のんびり焚火をして楽しんでいる場合じゃない。

4大文明


世界の4大文明というのを覚えておられると思います。ナイル川にはぐくまれたエジプト文明、チグリス・ユーフラテス川のメソポタミア文明、中国の黄河文明、これは最近、長江(揚子江といった方が分かりやすいでしょうか、上流部を含めて長江と呼びます)この長江にも古代文明があったというので、黄河・長江文明とも言われます。そして、今から話題にするインダス川沿いのインダス文明です。

このインダス文明について少し紹介しておきましょう。

モヘンジョダロ


モヘンジョダロ遺跡は、インダス川中流部のやや下流側にあって、少し上流のハラッパ遺跡とともにインダス文明を代表する遺跡です。城塞と市街地を併設する大都市の遺跡です。

(画像:江坂輝彌・大貫良夫(1984)文明の誕生,講談社,東京)

シタデル


城塞部分の画像です。最上部には後の時代に作られた、仏塔(ストゥパ)があります。多量のレンガが使われています。

大浴場


大浴場と呼ばれますが、ここにプールみたいに湯をためてお風呂に入ったというのではなくて水浴びをする場所です。

下水路


大浴場の排水もそうですが、遺跡全体に、このような排水路が整備されています。

井戸


煙突のようですが、井戸の写真です。2階あるいは3階から使ったのではないかとも考えられたようですが、建物は、壊れては作られ壊れては作られしているので、建物と井戸は同じ時代ではなく、後の時代の建物の人が使った井戸でしょう。

ダスターシュート


建物の壁の一部に、このような穴が作ってあります。雨どいかとも思いますが、穴が大きいので上階の人がゴミを投げ入れた、ダスターシュートだといわれます。
いずれも、ほぼ大きさのそろった大量のレンガを積んで作られています。
ここで、遺跡の分布を見てみましょう。

プレインダス


インダス文明はメソポタミア文明から1,000年ほど遅れます。
今から5,500から5,000年前の先インダス期には、インダス川沿いの遺跡は少なくて、西部のバルチスタン山地とインダス川の東部に遺跡が分布します。

(画像:南アジアへの招待)

アーリイインダス


初期インダス期でも前の時期の分布と重なりますが、インダス川中下流部沿いにも遺跡が降りてきます。

(画像:南アジアへの招待)

マチュアインダス


インダス文明期の4,600年前から3,900年前ころにはインダス川沿いに遺跡が分布して、インダス川を使った交流を特色とした文化であることがわかります。西部のバルチスタン山地の遺跡は減っていますが、東部の遺跡はむしろ増加しています。

(画像:南アジアへの招待)

ポストインダス


都市が衰える後インダス期、今から3,900年から3,500年前になると、バルチスタンやインダス川沿いの遺跡が減って、東部、ガッガル平原に集中します。このあと、3,000年前になると、ガンジス川流域に文化の中心が移ってよきます。

(画像:南アジアへの招待)

インダス文明崩壊の原因


インダス文明の崩壊の原因は、古くはアーリア人の侵略だといわれてきましたが、アーリア人が入ってくる3,000年前には、すでにインダス文明の遺跡の中心は東部に移っています。
アーリア人は、インダス文明を担ったドラビダ語族の人たちがインダス川流域を去ったあとに入ってきたのであって、インダス文明崩壊の原因ではなくて、結果と考えるのが妥当です。

文明崩壊の本当の原因

では、文明崩壊の原因は何だったのか?
地殻変動で川が浅くなったとか、流れが変わったとか言われます。あるいは、気候の変動で氷河が後退した、モンスーン帯の変化で乾燥化が進んだ、森林が減少した、小麦などの畑作物が穫れなくなったことも考えられます。森林の減少はレンガを焼いたためで、それで気候が変わった。灌漑のやりすぎで畑に塩害が起こったとかもいわれます。
20年前の私たちの調査で、インダス後期になるとイネを作り始めたことがわかりました。イネは多量の水を使いますが、多少、塩分のある水でもイネを作れます。干拓して塩分の残る水田でもイネはできます。広島市では牛田に上水道の水源池がありますが、満潮の時には牛田のあたりまで塩分があがってくるわけですが、それでも水田を作っていました。イネは多少の塩害には耐えられますが多量の水を必要とします。パキスタンのような乾燥地では、水溜りができると一層、塩害が進みます。結果的に作物がとれなくなって都市文明が崩壊したというシナリオです。
これらについて、少し考えて見ましょう。

南アジア地質図


インドとその北部の地質図です。インド南部のパミール高原とシベリアあたりは古い大陸地殻です。プレートテクトニクスによると、5千万年前くらいにインド亜大陸がアジア大陸にぶつかってヒマラヤ山脈ができ、山脈の前面はチベット高地となり、西と東には大きなしわができたといわれます。

(画像:寺岡易司・奥村公男(2011)アジア地質図の出版,REEN NEWS,33)

白亜紀後期の大陸分布


恐竜が活躍していた9千4百万年前ころには、インド亜大陸はアフリカ、オーストラリア、南極大陸とわかれたばかりで、北側にはテーティス海と呼ばれる暖かくて浅い海が広がっていました。

(画像:PALEOMAP Project/cretaceo)

インド亜大陸の衝突とモンスーンの発生


インド亜大陸は1年に18cmほどの早い速度で北進し、5千万年ほど前にアジア大陸に衝突を開始しました。その後、ヒマラヤが上昇するとともに北進のスピードは5cmほどに低下します。この影響は現在でも残っていて、地殻の活動がしばしば発生しています。
また、高くなったヒマラヤが原因で1千万年前にはモンスーンが誕生します。

(画像:ウィキペディア「インド亜大陸」)

モンスーンは、高く大きな山塊の熱的効果と、高いヒマラヤにはばまれて南北の大気循環が妨げられたことが原因で発生した気圧差でおこる季節風です。このモンスーン地帯が移動して乾燥化したとする説です。

(画像:酒井治孝(2005)ヒマラヤ山脈とチベット高原の上昇プロセス―モンスーンシステムの誕生と変動という視点から―,地質学雑誌,111−11)

サラスヴァティー川


地殻変動、あるいは砂漠の移動で消えたと伝えるサラスヴァティー川が今のガッガル−ハックラ川であり、この川が消えたことで文明が崩壊したとする意見です。
因みに、このサラスヴァティー川をつかさどる神様が弁財天です。

(画像:ウィキペディア「サラスヴァティー川」)

ヒマラヤ山脈


ヒマラヤ山脈の夏の衛星写真です。氷河の水はインダス川、ガンジス川に流れていきます。また、タクラマカン砂漠のオアシスを潤して、シルクロードの通路にもなりました。
パキスタンのある西側の氷河が特に少ない様子がわかります。最初のK2も岩が出ていましたね。

(画像:ウィキペディア「ヒマラヤ山脈」)

インダス川


インダス川の上流部は、氷河地帯です。5つの川が合わさった場所にサッカルという町があります。

(画像:ウィキペディア「インダス川」)

インダス川の流量


サッカルで測定したインダス川の流量です。氷河が融ける夏の流量が多いのがわかります。

(画像:ウィキペディア「インダス川」)

雨量と最大蒸発量


雨量と気温から計算したものです。東北部はモンスーンの影響で夏に少しの雨がありますが、ほとんどの地域は、年間を通して乾燥状態です。

日乾かしレンガ


インダス期のはじめには、このような日乾かしレンガでした。雨や洪水にあうと壊れてしまいます

モヘンジョダロ


インダス最盛期には焼成レンガが多量に使われています。雨には強いのですが、森がずいぶん減ったことでしょう。

ここで、私たちにはなじみの薄い、乾燥地の様子を写真で見ておきましょう。

薪屋


ペシャワールで見かけた燃料店の裏側です。北部から多量の木材が運ばれ、消費されています。

水売り


肩から何かつるしていますが、わかりますか?これもペシャワールで見かけたもので、水売りです。つるしているのは、足と肛門の部分を閉じた羊の皮で、首の部分は皮紐で縛ってあります。

ペルシャ井戸の歯車


ペシャワール郊外で見かけた木製の歯車です。井戸から連続して水をくみ上げるために使います。

ペルシャ井戸の概念図


その井戸の概念図です。ロバや馬がぐるぐるまわると、つながったバケツが順に動いて水をくみ上げます。このような井戸をペルシャ井戸と呼んでいました。

ペルシャ井戸によって灌漑される区画畑


イスラマバード近郊にあったペルシャ井戸で灌漑されている畑です。簡単に測って平面図を作りました。真ん中に井戸があって、大きく4つの区画に分かれています。それぞれの区画は、1.2×5mほどの小さな畑で、まわりに畝があります。

区画畑への灌漑風景


小さな溝に面した畝の一部を崩して小さな区画畑に水を入れ、溜まったら畝をなおすことを繰り返して、2〜3分ずつ順番に灌漑していきます。大きな区画を灌漑するのにつきっきりで作業して一日かかります。こうしてそれぞれの畑には4日ごとに水がはいります。

カレーズの縦穴


アフガニスタンに近いバルチスタン山地のクェッタ近郊で見かけたもので、直径2mほどの穴です。深さを測るために、小石を落として底に到着した音を聞いて深さを測りました。計算すると60mほどありました。20階建ての建物の高さです。このような穴が30mおきに並んでいます。底は横穴でつながっています。

カレーズの概念図


これは、カレーズと呼ばれる井戸で、長さは数キロから40キロメートルのものもあります。イラン、イラクを中心に、中国のタクラマカン砂漠や、アフリカのモロッコ、地中海の出口、スペインの地中海をはさんだ南側ですね、モロッコにもあります。

(画像:岡崎正孝(1988)カナート イランの地下水路,論創社,東京)

カレーズによって灌漑されている区画畑


こうして苦労して掘ったカレーズからの水も、小さな区画の畑に一つずつ順番に灌漑されます。
カレーズの出口には小さな池がありました。地下水路の水をためておいて、朝夕に灌漑していました。作付けしていない畑がたくさんありました。水が足りないのだと思います。

河川灌漑の区画畑


北部のスワットでも、川から引かれた水路の水を小区画の畑に灌漑していました。

山腹水路


もっと北のチトラルで見かけた水路です。斜面の中腹を水路が通っています。

山腹水路


急な崖を水路まで100mほど登ってみました。下に川が見えますが、この川から取り入れるのではなくて、氷河につながる小さな渓流から取水しています。川向こうにも、山腹を横に流れる水路が見えます。

山腹水路平面図と流量


チトラルで水路にそって歩いて平面図をつくり、水量も測ってみました。3キロくらいの長さです。雨が降るたびに修復作業をするそうです。

階段畑


さきほどのスワットの階段畑です。ここにも水路がありました。

水源池に析出した塩類


乾燥地では、水路を作って灌漑すると、水の中に溶けた塩分が畑に残ってしまいます。
これは、畑ではなくて、海沿いのカラチの水源池のまわりに溜まった塩です。

ハラッパ遺跡に析出した塩類


ハラッパの遺跡でも、湿り気があるとこのように塩分が溜まります。

土壌中のアルカリ物質と酸性物質


水の中には、土壌中の物質が溶け出しています。畑では水だけが蒸発して、これらが残ります。
アルカリ性の物質を酸性の物質が中和してできたものを、塩(えん)といいますので、総称して塩類と呼びます。

ソルトレンジ図


きれいな水でもわずかに塩分を含んでいますが、パキスタンにはインドが南極あたりから赤道を越えて北上してくるあいだに、テーティス海の一部をとりこんでできた岩塩層が分布しています。有名なのがインダス川中流のソルトレンジで、アレキサンダーの馬が土を舐めて動かなかったので発見されたといわれます。ここから塩分がどんどん流れてきて、畑に塩類が溜まります。

(画像:Cotton,J.T.・Koyi,H.A.(2000)

Modeling of thrust fronts above ductile and frictional detachments:

Application to structures in the Salt Range and Potwar Plateau,Pakistan、

Geological Society of America Bulletin,112)

ハラッパ遺跡から検出されたイネのプラントオパール


あちこちの遺跡のレンガをもらって、顕微鏡で見てみました。そうすると、ハラッパ遺跡のレンガからイネの細胞の化石、プラントオパールが見つかりました。

(画像:藤原宏志,1991,インダス文明と灌漑農耕,日作九支報,58)

プラントオパールの供給源


イネの葉にある機動細胞という細胞には珪酸が溜まっています。イネが枯れて腐ったあとも珪酸は腐らないので、細胞の形を保ったまま土の中に残ります。こうして土の中に化石として残ったものを、イネのプラントオパールと呼びます。
インダス後期にイネを作り始めていた証拠です。
イネは灌漑水さえあれば塩害に強いのですが、塩分を含む水の灌漑はますます塩害を助長します。最後にはイネさえ作れなくなったと思います。

文明崩壊の原因


文明崩壊の原因は、言われてきたようにアーリア人の侵略ではありません。地殻変動、気候変動が原因の一つになったでしょう。
さらに、レンガを作るために多量の木を切って乾燥化を助長したこと、作物を作るために灌漑をしたことが塩害を助長したことなどの社会的要因も大きかったと思います。
これらの総合的な原因で文明が崩壊したのではないでしょうか。

付録


最後に、スワットで見かけた小さな店屋の少年の話しを付け加えましょう。
14歳の少年は、この店のオーナーだといっていました。少し英語ができます。親も店を持っているが、自分の方が稼ぎが多いそうです。
 彼は学校にいって勉強するのが楽しくてたまらないと言っていました。学校に行けば英語を勉強できる。このあたりにも外国人が観光にやってくるが、英語ができると外国人相手の商売ができる。彼らと英語で話しをすると喜んで品物を買ってくれる。値切られることもあるが、英語でいろいろ説明すると少し高くても買ってくれる。うまく説明できなかったときは、次の日に学校に行って先生に聞いて覚えたらいい。
少しお金がたまったので、おもて通りにもっと大きな店を買うつもりだ、といってました。
この一連のやりとりには、考えさせられました。

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